結局私がテニス部コートに到着したのは朝練が開始してから30分後のことだった。
遅刻して嫌味の一つでも言われるかと思ったが、何故かレギュラー達は何も言ってこなかった。
ただ、一つ普段と違ったのは・・・
私に対する視線。
鳳と宍戸先輩は明らかに私と目を合わせないようにしてるし、忍足先輩と向日先輩は今まであからさまに私に対して見せていた嫌悪が消え失せ、好奇の色だけが窺えた。
樺地は相変わらず何を考えているか分からないし・・・・
芥川先輩にしてみれば姿すら見えない。
というか、私が入部してから彼が練習しているところまともに見たこと無いような気がする。
跡部部長に関しては、普段と変化は無かったのだが・・・・。
けど、私にとって彼らが私をどう思うと関係ない。
だから、何も感じなかった。
むしろ、嬉しかったくらいだ。
彼らがいちいち突っかかって来なかったことが。
遅れてきた私には、もう仕事が無くて。
私はベンチに座ってボンヤリと練習風景を眺めていた。
「・・・・・・・・・暇なのも疲れる・・・・・・」
呟くように言ったその言葉は、誰の耳に届くことも無く、テニス部員達の掛け声にかき消されていった。
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「で、あって1803年にイギリスがオランダで〜・・・・・・・・・」
静かな教室に響き渡るのは、先生の声とノートをとる真面目な生徒達のシャーペンを動かす音。
よくそんなに真面目に授業を聞けるな、と本当に感心する。
私は何年鍛錬を積んでも絶対に無理だと思った。
私が授業中必死になることと言えば、欠伸を噛み殺し、眠気と戦うことくらいだ。
先生の声が異国・・・・・というよりどこか別の星の子守唄みたいでやけに心地良く、私は欠伸を噛み殺すだけで一日の精神力と体力を使い切ってしまいそうになる。
とりあえず、真面目に授業を受けないと、先生達に目を付けられてしまうのでほどほどにノートはとっている。
が・・・。
眠い目を一生懸命開きながら、私は机の上に開かれた自分のノートに目をやる。
ホント凄いと思う。
必死でノートをとっているつもりではあるのに、気付いたら授業に関することより落書きの方が多くなっているのだ。
ページの半分以上は螺旋のような落書きだったり太陽かライオンか分からない生物が生息していたりなど、で授業用のノートとしての役割は全く果たしていない。
最初は本当に真面目にノートをとろうとは思っていた。
だが、授業のスピードが速すぎてノートをとるに取れなくなり、次第に諦めてきたのだった。
今日も、ノートをとろうと試みたものの、早送りをしているような先生の授業に私は授業開始10分でノートを取るのを止めて、落書きタイムへと変わってしまった。
けど、10分持てば今日はよく持ったほうだと思う。
短い日だと授業が始まる前から一ページ丸々落書きに埋まっていることもあるから・・・・。
さすが『ユウシュウ』な学校は違う。
この授業についていけるだけでもかなり凄い人だ。
(まぁ・・・・・・人間的には腐ってるがな・・・)
運良く窓際の席になった私は、考え事をするときはいつも空を見ていた。
流れる雲の早さとか、雲の形だったり、色だったり。
雲が無い真っ青な空も好きだ。
夜行性だった私は太陽の光を浴びることなんてほとんどなかった。
目が見えない訳でもなければ、太陽の光の届かない洞窟の中で育ったわけでもない。
なのに、今更・・・・
空ってこんなに綺麗だったんだ
って気付くなんてなんて滑稽な話なんだろう。
窓から微かに見えるテニスコートに視線を向ける。
ここにこうやっている一時間は物凄く長く感じるが、あそこでの一時間はあっという間だ。
それが良いことなのか悪いことなのかは分からないけど、
好きか嫌いかと言われれば『嫌いだ』
大嫌いだ。
折角綺麗な青空を見て、少し自分自身が清められたかのように感じても、あそこにいると、私も結局は汚い人間なのだと突き付けられるような気がするのだ。
マネージャー達のやっていることも、レギュラー達のやっていることも、
結局は私がやってたことと同じなのだ。
彼らは同類なのだ。
なのに。
彼女達を嫌悪する私がいる。
彼達を許せないと思う私がいる。
・・・気持ち悪いと思う私がいるのだ。
でも、もし私が今、太郎さんとのゲームから解放されて自由の身になったとしても、私はお金が無くなったら結局はまた体を売ると思う。
以前の私と同じ生活を送るだろう。
本当に許せないのは・・・
嫌悪しているのは・・・
気持ち悪いのは・・・・・
私なんだ。
矛盾していることに気付いていても、
止めることなんて出来ない。
「おい!」
不意に名前を呼ばれ私はハッとする。
テニスコートを見ていたら完全に今授業中であることを忘れていた。
というか、考え事をしていたのか、いつの間にか寝ていたのかすら曖昧な状況だった。
何だか見るに見られず、私は窓の外を眺めたまま制止する。
「おい!って言ってるだろう。」
声の主はぶっきら棒な声で話かける。
低めの声だが、若い声。
確か、この声は聞いたことがあった。
話したことは片手で足りるほどしかないが・・・・
しかもその中のほとんどが会話ではなく単語の受け答えだった。
少し頭を動かすと、目だけで彼の方を向く。
「俺は『おい』では無いんだけど、
日吉・・・・」
そこには不機嫌そうなテニス部準レギュラーの日吉若の姿があった。
日吉若。
偶然同じクラスの偶然席が隣同士の偶然同じテニス部の日吉若。
クラスの中で唯一私に話しかけてくる男でもある。
そして、唯一私に対して態度を変えない人。
けど、いつも真面目で無表情で何考えているかある意味テニス部一分からないこの男は私の苦手分野だった。
あまりお近づきになりたくなくて、話しかけられても単語単位でしか返事した覚えが無い。
そんな感じなので、ここ最近は滅多に話しかけてこなくなったのだが・・・・
一体何の用だと言うのか。
大した用事じゃないなら出来れば、話しかけないで欲しい。
私は大げさにため息を吐く。
他人を寄せ付けない合図。
どこかへ行け、という警告。
・・・が。
「一つ言っても良いか?」
日吉若という男は全く気にしていないらしい。
普段と変わらぬ態度で話を続ける。
「言いたいことがあるならさっさとどうぞ。」
私はフイっと彼に向けた視線を反らすと、ぶっきら棒にそう呟いた。
それでも日吉は全く表情も口調も変えずに、何事も無いかのように口を開いた。
「お前、次は移動教室だぜ?」
「・・・・・・は?」
予想外の言葉に思わず日吉の方に顔を向けた。
そこにはいつもと変わらない顔で私の方をじっと見下ろしている日吉の顔があった。
私は教室の前方―黒板の上―にある時計に目を向ける。
もう、時計は次の授業の開始時間へと針を進めつつあった。
「お前何、のんびりしてるんだ!?次は鬼平の授業だぞ!!遅れたらぶん殴られるぞ。」
「それはこちらの台詞だろう。何をのんびりしているんだ?」
正論を言われてグッと息を詰まらせる。
言い返せない。
本当に・・・一体私はどれだけ意識消失していたのだろう。
チャイムが鳴ったことにも気付かないほど、意識が飛ぶなんてことは初めてだ。
どうやら本気で疲れているらしい。
「何が面白いんだ?」
日吉が怪訝そうに尋ねる。
私は思わず苦笑いしていたみたいだ。
何だか焦りも怒りもどこかへ吹っ飛んでしまった。
今は、ただ何だか笑いたかった。
本当に最近の自分はちょっとおかしいと思う。
何もかもが自分じゃないみたいだ。
突然日吉が何かに気付いたように視線だけ動かす。
「たまには授業くらい真面目に受けたらどうだ?」
「真面目に受けているつもりだけど?」
「だったら何だ、それは。」
指差した日吉の指を追っていくと、そこには開かれたままの授業ノートという名の落書きノートがあった。
私は思わず凄い勢いでノートを閉じる。
もう、十分見られてしまったから意味無いのに・・・。
「俺がどうしようが俺の勝手だろう。余計なお世話だ。」
何か見られたくないものを見られたような気がして、私はいつもより冷たい口調でそう言ってしまった。
日吉もこれにはちょっとムッとしたようで、僅かに眉間に皴が寄っている。
が、私の知ったことでは無かった。
机の中から今からの授業の教科書とノートを取り出すと、椅子が倒れるのでは無いかと思うほど勢い良く立ち上がる。
「何の用で話しかけてくれたのかは知りませんけど、とりあえず教えてくれてどうもありがとうございました。」
やはり愛想の無い、冷たい私の言葉に日吉は一瞬眉を顰める。
が、頷くように俯き加減になり、小さくため息を吐くと、再び俺の顔を見たときには普段の無表情な彼の姿に戻っていた。
彼は私に向かってノートを差し出す。
今度は私が眉を顰める番だった。
「何だよ、これは・・・・?」
「授業のノートだ。お前、授業についていけてないだろう。」
耳と目を疑った。
この男は一体何を言っているのか。
しばらく意味を理解出来なかった。
呆然としている私の様子を見て、何か気付いたのか、思い出したように
「別にお前のためじゃない。お前があまりに馬鹿だとテニス部の評判まで悪くなる。」
というと、彼はノートを私の机の上に置いた。
有無を言わす気は無いようだ。
彼が置いたノートを何も言わずにそっと机から持ち上げた私の姿を見つめていた彼は、
受け取ったと勝手に解釈すると、
「それだけだ。お前も早く行かないと間に合わないぜ。」
そう言って彼は腕時計に目をやりながら私に背を向け、早々と教室から出て行こうとする。
「・・・・・・・・・・・。」
何も言えなかった。
決して、嬉しかった訳じゃない。
けど、無条件で人から何かを与えてもらったのは初めてで・・・
何か不思議な気分だった。
ノートを持ち上げた手が微かに震える。
「すまない!」
無意識に俺の口からはその言葉が出ていた。
『ありがとう』とは決して言えない自分が本当に情けない。
すでに教室から出て行こうとしていた日吉だったが、俺の言葉に振り向く。
少し驚いたような彼の顔が印象的だった。
驚いたようにわずかに目を見開いた後、彼は少し微笑む。
「いや・・・・・一人で仕事をやらせて申し訳ないからな。」
少し照れたようにそう言うと、彼は逃げるようにして教室から出て行った。
もしかしたら、何か企んでいるのかもしれない。
所詮彼だってあのテニス部の一人なのだから。
けど。
今だけは素直に騙されてあげようと思う。
悪い気分じゃないから。
このままの気分を味わいたいと思ったから。
この時、私は何も気付いていなかったんだ。
水面下で動いている女達の足音に。
そして、日常の他愛も無い一ページの日吉とのこの出来事が、彼女達のきっかけにしてしまったのだということに。
一度生まれた綻びは
簡単に広がっていく。
大きく大きくなっていって。
いずれはばらばらになってしまうのだ。
そして・・・・・
私が顔もよく知らないテニス部員に呼び出されたのは
それから3日後のことだった。
BGM:煉獄庭園様